ナッジ(nudge)とは、直訳すると「ひじで軽く突く」という意味です。行動経済学や行動科学分野において、「人々が強制によってではなく、自発的により良い行動を選択するように促す仕掛けや手法」を示す用語として用いられています。
例えばイギリスでは、2010年に「納税通知書に、同じ地域に住む住民の納税率を記載する」という実証実験を行いました。結果、その納税率を見た滞納者の意識が高まり、地域全体の滞納率が減少したのです。
この結果を踏まえ、イギリス政府はナッジを用いたメッセージを納税通知書に記載することを2012年に決定し、年間およそ2億ポンドの税収の増加を実現しています。
またアメリカでは、カフェテリアで、サラダなどの健康によい品を利用者が取りやすいように陳列のはじめの方に置くという実験が行われました。この実験を行ったシカゴの学校では、健康的な食品を選ぶ人の割合が以前に比べて35%も増えたといいます。
このように各所で活用が進むナッジですが、注目を集めたきっかけは提唱者である米国シカゴ大学のリチャード・セイラー教授のノーベル経済学賞受賞(2017年)です。これを受けて、同教授の著作である「実践 行動経済学」も全米でベストセラーとなりました。
同書では、ナッジを「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素」と定義しています。
ナッジはもともと主に公共政策のために使われていた理論ですが、近年では組織づくりや人材育成、パフォーマンス向上のためにも用いられています。
例えばGoogle社では、「optimise your life」と称し、社員がより良い人生を過ごせるよう、ナッジを用いて意思決定に介入しています。
具体的には、「カフェテリアで、自然と健康的な食べ物を選ぶような配置にする」「401k(確定拠出年金)の積立額をできるだけ大きくさせる」「新しく入った社員ができるだけ短期間で戦力になるような振る舞いを上司に促す」といったナッジが導入されています。
このように、様々な領域で活用が広がるナッジ。今回は、このナッジの定義や活用法、そして「ナッジを用いて組織のパフォーマンスを高める方法」について解説していきたいと思います。
ナッジが行動経済学のなかで特に注目されるようになった理由のひとつに、ナッジが「人の思考のクセを利用した選択肢の提示手法」であることが挙げられます。
人の思考のクセには以下の通り、大きく3つのタイプがあることがわかっています。皆さん、全て思い当たることがあるのではないでしょうか?
例:新薬の説明について、以下のAの説明のほうが賛成率が高くなる。
A:1,000人の病気に苦しむ人のうち、700人の命を救うことができます。しかし、副作用のために300人が亡くなります。
B:副作用のために300人が亡くなります。その代わり、700人の命を救うことができます。
例:以下のふたつの選択肢を提示された場合、AよりもBを選択する人が多い
A:80%の確率で4万円もらえる(期待効用は3万2千円)
B:100%の確率で3万円もらえる(期待効用は3万円)
「自分の1日に歩いた歩数が全体の○○%より高かった(あるいは低かった)」という相対的なフィードバックをすることにより、歩数のみをフィードバックしたグループと比較して、1日あたりの歩数が増加する。
このように、人間は必ずしも合理的ではなく、バイアスのかかった判断をしがちです。
その理由としては、「思考には早い思考と遅い思考の2つのモードがある」という二重過程理論(Dual process theory)が挙げられます。
二重過程理論によると、思考システム1は直感的・感情的反応であり、無意識のうちに素速く物事を判断し、結論を出します。これに対して思考システム2は、理性的・熟慮的判断を意識的に行うため、時間がかかり、実行には努力やエネルギーを必要とします。
このシステム2にはなかなかスイッチが入らず、入ったとしてもすぐに疲れてしまう。簡単に言えば、人は「それが最良かどうか」を深く考えずに、「簡単だから」という理由で意思決定をしてしまう生き物なんですね。
※参考記事:2つの思考モード(システム1・システム2)
ナッジの考え方は、システム2に頼らずに、システム1をうまく用いることによって、人のより良い選択や行動を導くことを目指すものです。
人間が本来持つ思考システムに沿った考えた方であるからこそ、従来よりも低コストな方法で人々の選択をより良いものに変えていける可能性がある。こうした背景から今、ナッジへの期待が高まっているのです。
では、ナッジをビジネスシーンに応用することは可能なのでしょうか? ここではナッジ理論を用いて、ビジネスにおける生産性や効率を上げる簡単な事例を紹介します。
そもそも人が会議を重要だと思ってしまうのは、「役に立たなくてもとにかく情報は集めるべきだ」という心理的なバイアスがかかっているためです。
そこでそのバイアスを解除するために、例えば「ミーティングスケジュールのデフォルト設定を60分ではなく30分にする」といった施策が有効です。
これによって、「標準的なミーティングの時間は30分なのだ」という認識が自然と生まれ、45分のミーティングでも「長い」と感じるようになります。
②戦略立案と実行の生産性を高める
時間をかけて戦略を立案しても、肝心のその実行がお粗末になってしまう…ということがよくあります。その理由のひとつに、人は「将来のタスクに必要な時間を低く(楽観的に)見積もりがちだ」という心理的な傾向があります。
とある800人規模のドイツの製造業の会社では、この問題を解決するため、四半期ごとに計画に対する進捗を測定できる指標とゴールを個人に割り当てました。従来は年次だったものを四半期に変更し、より短い頻度で効果が測定できるようにしたのです。
また、経営陣ではなく従業員自身が戦略実行の計画を行い、重要な指標についてオープンに話し合うことにしました。
上記の施策によって計画に「実行意図」が生まれ、従業員の行動が自然に変化。計画にコミットするようになり、ゴールの達成率が上昇しました。
③セルフマネジメント力を高める
特にデスクワークを行っている人にとって、「業務に深く集中できる」時間があることは重要です。しかし多くのオフィスでは、しばしば予期しない妨害が入り、なかなか集中する時間を確保することはできません。
そこで重要なのが「セルフマネジメント力を高める」ことです。例えば「NOミーティングデー」や「在宅ワークデー」のようなひとりで働く環境を設けると、自然とセルフマネジメント力を高める効果があります。
また、従業員に「自分の過去の行動」を見せることも有効です。 例えばメールチェックやWebのブラウジング、SNSの閲覧といった行動をソフトウエアを用いて記録して提示すれば、集中の妨げになっているものを自然と認識し、減らすことができます。さらに、メールの通知音をデフォルトで削除する、もしくは新着メールの到着する頻度を1時間に1回に減らす、といった施策も有効です。
④ナレッジシェアの効率を高める
多くの企業によって、ナレッジシェアはイノベーションの成功のカギです。しかし、ただオフィスに座っているだけでは、ほとんどの場合イノベーションは生まれません。互いにアイディアを交換しあえる、多様性とオープンさを持った文化が必要なのです。
そこでGoogleでは、「micro kitchens」という手法が考案されました。これは、異なる部署に所属する従業員同士が、社食やカフェで気軽に会うというものです。
社食やカフェは、建築学的にディスカッションや意見交換に最も適した場所とされています。このような場所で対話する機会を設けることで、ナレッジシェアを自然と促進し、イノベーションにつなげることを狙いとしています。
※参考記事:Nudge management: applying behavioural science to increase knowledge worker productivity
では最後に、ナッジ理論を用いて「人のパフォーマンスを上げる」方法について紹介します。
ナッジを応用すると、指示や命令と言った強制的なマネジメントをしなくとも、「自然に」メンバーのパフォーマンスを向上させる後押しができます。
前述したGoogle社で、人事担当上級副社長を務めたLaszlo Bock氏のベストセラー著書「ワーク・ルールズ!」内では、チームの生産性を上げる10の秘訣のひとつとしてナッジが記載されています。
1 チームメンバーの仕事に意味をもたせる
2 チームのメンバーを信用する
3 自分より優秀な人だけを採用する
4 発展的な対話での心象とパフォーマンスを混同しない
5 優秀なプレイヤーと業績の低いプレイヤーに注目する
6 カネを使うべきときは惜しみなく使う
7 報酬は不公平に払う
8 ナッジ-きっかけ作りをする
9 高まる期待をマネジメントする
10 楽しむ (そして、最初に戻って繰り返す)
※参考記事:ワーク・ルールズ!まとめ:チームの生産性を上げるGoogleの工夫?
Bock氏は現在、ナッジの概念を人事領域で活用し、従業員の行動変容を促すナッジマネジメントを提唱するHumuという企業を立ち上げ、2017年よりCEOを務めています。
Humuが提供する「ナッジエンジン」は、数千ものカスタマイズされたメッセージを従業員に届けます。 例えば「明確な基準を設けましょう。なぜ、そしてどのように、あなたがその意思決定をしているのかを明確にしましょう」これは、Bock氏自らがHumuから受け取ったナッジのひとつです。
このようなHumuからの日々のメッセージを受け取っている組織では、6ヶ月の間にアクションの量が250%増加し、メンバーのパフォーマンスが20%以上増加したといいます。
※参考記事:The Humu Nudge Engine is Making Work Better—Here’s How
そこで今回は、ナッジマネジメントの第一人者であるBock氏がおすすめする、ナッジを用いてメンバーのパフォーマンスを上げる方法について紹介していきます。
大きなゴールを小さなマイルストーンに分割することで、より簡単にゴール達成に必要なスキルを習得することができます。
数十年にわたって、専門的なスキルの習得について研究を行ってきた心理学者のK. Anders Ericsson氏は、一流の専門家は自身の活動を細分化し、同じことを何度も繰り返しながら調整を重ねることで、少しずつスキルを高めていることを発見しました。
例えば業務上のトレーニングにおいては、カリキュラムを細かいレベルに分割し、それを繰り返し行うことを従業員に推奨しましょう。すると、レベルごとの課題や改善点に気づきやすくなり、結果的に素早くスキルアップをすることが可能になります。
例えば1on1ミーティングで「最初に話す内容」を、以下の3つの質問に固定しましょう。
「いまうまくいっていることは何ですか?」
「いまぶつかっている壁はありますか?」
「それに対して、何かサポートできることはありますか?」
このように、1on1の「入り方」にルールを設けておくことで、対話全体のレベルが著しく向上します。特にコミュニケーションに苦手意識があるリーダーにとっては、最初の話題が決まっていることで、ストレスが軽減し、メンバーのことをより頻繁にチェックするモチベーションが生まれます。
Googleでは、マネージャーに対して半年に一度、彼らの強みと改善点をまとめたレポートを提供していたそうです。これによって、たとえ研修に参加していなくとも、多くのマネージャーが次の半年間に自分の弱みに向き合い、改善することができたといいます。
このような変化が起こるのは、多くの人が「成長したい」という気持ちを持っているからです。フィードバックを受けることで、人は自分自身の課題を自覚し、改善しようとします。
そのためにも、互いにフィードバック(ポジティブなものも、建設的なものも)を送り合うことに対しての心理的安全性を、組織に根付かせることが必要です。
人の認知能力は限られています。スピードが求められるビジネスの世界において、従業員が数多くのタスクを抱えながら、長期的なゴールを目指すことは非常にチャレンジングです。
そこで有効なのが、メールでのリマインダーや口頭での声がけのような、シンプルで簡単な投げかけです。Googleでは新しく入社したメンバーに対し、定期的に「高パフォーマーが実践していること」についてメッセージを送ることで、早い立ち上がりをサポートする…というナッジを提供していました。
他にも、「なるべくたくさんの質問をしましょう、そしてフィードバックをお願いしましょう」というリマインドを繰り返し送ることで、新入社員の生産性を年間400万ドル上げることに成功しました。
※参考記事:You Learn Best When You Learn Less by Laszlo Bock
ピープルマネジメントツール「Wistant」を使うと、上記で提唱されているような「目標に対する定期的な観察」「1on1のアジェンダ作成」「高頻度のフィードバック」といった仕組みを簡単に導入することができます。
▼詳しくは各機能についての記事をご覧くださいませ
・1on1機能がさらに便利に!「1on1シート」が新しくなりました
・Wistantを使うと、ストレスだらけだったマネジメント体験がどう変わる?
・評価ワークフローの作成もラクラク。Wistantのフィードバック機能を紹介します
▼導入事例については、こちらからダウンロードいただけます。